この記事を書いている時点ではてなブックマークのトップページを見るとある記事が盛大に燃えています。僕もTwitterでこの記事が流れてきたときに読んでこれは燃えるだろうな~と思ったのでむべなるかな。
ある記事についてディスる気もないので紹介はしませんけども、まぁたまに見かける公共の場で子どもの鳴き声がうるさいという内容です。
その記事が燃えたのは「自分が迷惑だからやめて欲しい」って気持ちがあふれ出まくってるのにそれ以外の余計なことを書きすぎたからというか、素直に「子供が泣くとうるさい。子供がいない人間にも配慮してくれ。」って書けばここまで燃えなかったでしょ、とは思うんですけど、同時に「公共の場で子どもが泣くのを我慢するのがまっとうな大人として当たり前の態度」って風潮もあるのかなと思ったわけです。
この「公共の場で子どもが泣くのを我慢するのがまっとうな大人として当たり前の態度」って風潮はそもそも正しいのかなってことなんですよね。
僕は2歳の娘の父である
こうしたことを考えるに、自分の立場って大事だと思うんですよね。基本的に公平に何かを考えるなんてことは不可能で完全な客観視なんてありえないので。
それで改めて僕の立場を書くと僕には現在2歳8ヶ月になる娘がいる1児の父ということになります。正に子供がなく問題では親側の立場、当事者なんですね。
我が家は子供を連れまわす方の家庭かもしれない
世間一般にどれくらいのものかわかりませんが、僕の感覚的には我が家は子供をいろんなところに連れまわす方の家庭かもしれないですね。
さすがに映画や大人向けのコンサートなどに連れて行ったりはしませんが、動物園だとか子供向けのコンサートだとかそのたいろいろと連れていくときには毎回電車を利用しています。旅行にもちょくちょく行くので今2歳8ヶ月の時点で飛行機にも12回乗っています。もう飛行機を珍しがることもなくなってきました。
なかには子供の記憶に残らないうちに旅行とかさせても意味がないという方もいるかもしれませんが、別に思い出作りのために遊んでいるわけではありません。その一瞬一瞬も楽しみたいものですし、小さいうちにいろんな刺激を得ることは記憶に残らなくても大切ですよね。
なによりこれがダメだと親の僕たちも子供が大きくなるまでの数年間は一切遠出できなくなってしまいます。実家の両親に孫の顔を見せることすらできません。
そんなわけで我が家は積極的に子供をちょっと遠出の遊びや旅行に連れていきますしその時には公共交通機関もガッツリ利用しています。
公共の場で子どもが泣くのを我慢するのがまっとうな大人として当たり前の態度なのか?
これは僕の体感ですけども、最近はどうも「公共の場で子どもが泣くのを我慢するのがまっとうな大人として当たり前の態度」という風潮があるように思います。特にインターネットでは。
昔はどうだったのでしょう?よくわかりません。やはりこういうことは自分に子どもが産まれてから気が向くようになったので昔はイマイチよくわからないのです。でもやっぱりこの風潮は最近特に高まっているような気がします。
本当は「子供がうるさいのをなぜ我慢しなければいけないんだ!」と思っていても口に出すのは許されない。心が狭いと言われて非難されてしまうのではないかと我慢している人も多いのではないかと思います。
で、この「公共の場で子どもが泣くのを我慢するのがまっとうな大人として当たり前の態度」という風潮は正しいのかということです。
うるさいのは害である
子どもがうるさいから配慮しろという立場の人の前提は「自分が被害者である」ということでしょう。自分は相手に対してなんら迷惑をかけていないのに一方的に騒音被害を受けていると思っているわけです。
この考え方自体にはなんらおかしな点はありません。とてもわかりやすい考え方です。確かにうるさいことは単純に相手の権利を侵害しています。
ただ、人は相手の権利を侵害しながらでないと生活できません。だからあとは程度問題だったりします。どこまで譲歩できるかというか、その他の条件を考えて譲歩するべきかということですね、
うるさいのはお互い様
「公共の場で子どもが泣くのを我慢するのがまっとうな大人として当たり前」勢の意見はうるさいのはお互い様ということでしょう。自分だって子どもの頃はうるさかっただろうとか、社会を維持するために子どもは必要なんだから子育てしやすい雰囲気が大事だろうとかそういう感じですね。
特に公共交通機関とかだと子どもが泣かなくなるまでというと場合によっては何年もかかることもあるわけでその間ずっと使わないわけにもいかないでしょって話になるので擁護派が多いのでしょうね。
こうした意見は親として有り難いものの、だからといって子どもが泣いたときにそれに甘えすぎると問題でもありますよね。
利害の対立はそもそもどちらが正しいというものでもない
子どもがいなかった頃は子どもの泣き声はうるさいと文句を言っていたのに、子どもが産まれたら途端に子どもが泣くのは仕方がないと手のひらを返す人は多いと思います。人間は勝手な生き物ですしある意味当たり前です。
そもそも立場が違えば社会に求めるものは変わります。立場の違う人たちが同じ空間にいれば利害が対立するのは当然の話です。そしてそれぞれに自分の権利について主張するでしょう。
これについてはどちらが正しいというものでもありません。お互い言い分はあっても出発点が違うので共通の前提を基にした話し合いなんてできませんし、決着がつくわけもありません。
ええ、長々と書きましたがけっきょくこんな問題どっちが正しいとかではないのですよね。
結局は相互理解と思いやりの話
立場が違うと見える世界が違う
お互い求めるものが違えば見える世界も違ってきてしまいます。
「子どもがうるさい」「何とかしろ」と思っている方の多くは「子連れの多くは配慮がない」と思っているのではないでしょうか。電車で、ファミレスで、いろんな外出先で、子どもが泣いたり走り回ったりしているのに親が注意もしないなんてけっこうよく見かけます。子育てをしている立場からしてもあり得ないことです。
もちろんちゃんと注意する親もいるし小さな子どもが常に騒がしいわけでもありません。でも子供がうるさいと思っている人の目に留まるのはそうしたシーンばかりでしょう。そもそも騒がしくなければいることに気づかないか気づいても印象に残らないでしょうしね。そうすると普段から子どもはうるさくて嫌だと思っている人は「子連れの多くは配慮がない」というふうに世界が見えてしまうでしょう。
逆に親の立場になれば「自分はきちんと子どもに注意しているしなるべく配慮している」という方も多いでしょうし、「子連れでの外出はすごく気を遣う」「いつ子どもが泣くかとハラハラする」というちゃんと配慮ができる親の声を聴く機会も増えるので「子連れの多くはできる限りの配慮はしている」というふうに世界が見えてしまうでしょう。
結局は相互理解と思いやりの話
ここまで長々書いてきてアレなんですけど、結局は相互理解と思いやりの話なんですよね。っていうスゲー当たり前の話。
子どもが泣いていてうるさいと思うのは当たり前の話だし、でも子どもがいる家庭が丸々我慢するのもしんどい。お互いの立場を本質的に理解するのは不可能でしょうけど、多少の想像力と思いやりがあれば丸く収まってくれるような気がします。
世の中のトラブルのほとんどはここに落ち着いてしまうような気もするのですけど。。。
まとめ
いろいろと書きましたが、僕としては娘ちゃんをいろんなところに連れて行ってあげたいし、僕たちだって出かけたい!公共交通機関を使うときは最大限配慮する心づもりなので排除はしないで欲しいなぁという感じです。
最後に、子どもが泣いたり、わめいたり、走り回ったりしてるのに何もしない親!お前は何とかしろ!
以上です。