物欲に負けた日

オススメのガジェットや文具のレビュー、育児や仕事、日々のいろいろを書いています。

土俵の女人禁制は差別であるし、伝統という言葉で差別を正当化することは許されない

f:id:beed:20180407201416j:plain

どうも!きったんです。

土俵上で救命活動を行った女性に対して相撲協会関係者が土俵から降りるように指示したというのが話題になっていますね。各メディアでも扱われているということはみんな相撲協会の対応に違和感があるのでしょう。まぁ、当然の話です。

しかし、今回は人命がかかっていたのでこれだけの話題になりましたが、そもそも土俵に女性が上がってはいけないということは明確な差別であるし、今回の件に限らず今までも何度も問題になってきました。それなのによくこんなことが今でも許されているなぁと思うのです。

こうした女人禁制の問題は相撲に限らないのですが、根は同じでいずれも明確な差別であり是正しなければいけない問題です。

女性が土俵に上がれないのは明確な差別である

土俵に上がれないのは女性が穢れているから?

相撲協会は女人禁制の理由を伝統だからと説明しますが、伝統ってなんですか?まったく理由になっていません。

これは「女性は穢れている」「女性が上がると土俵が穢れる」といった理由を言ってしまうと女人禁制がただの差別であることが明らかになり都合が悪いからでしょう。

そもそも日本には伝統的に女性は穢れているという思想があります。神道・仏教における宗教的な思想もあって相撲に限らず女人禁制の場所や神事、祭りの類は未だにあるようです。

女性が穢れているという思想の理由はいろいろとあることになっていますが、結局のところ男が文化を作る主体であったからそうなったのであって、男の方が力があったから女性を虐げてきただけでしょう。そこにいろいろと屁理屈をこねているにすぎず明らかな差別です。

女性が穢れているという思想が差別ではないと思う方は、自分の大切な女性、彼女や奥様、お母様に「あなたは穢れている」と言えますか?僕は言えません。

女性が穢れているという思想はどこから来たのか?

どんな言い訳をしようが、女性が穢れているとか、女性の方が劣った存在(仏教の五障等)といった価値観は差別的なものであり、父権制社会で男性側が一方的に生み出してきたものに過ぎません。

女性に対する穢れ思想は神が血を嫌うことに由来すると言われています。女性には月経があり月に一度血を流しますからね。

でもね、神道の最高神である天照大御神は女性ですし、古事記をみても天照大御神は日本を文字通り産んだのです。元来の神道は女性を穢れているなどと考えていないのです。

では女性が穢れていると考えられはじめたのはいつ頃なんでしょうか?

女性が穢れているという思想は日本に仏教が伝来してからではないかと思います。仏教は日本に伝来した時点ですでに釈迦の教えからかなり変質しています。日本に伝来した仏教は女性は仏になれないとか、地獄の使いであるとか、男性より劣った存在であるという考え方を持っていました。当時の日本では宗教における女性の地位が高かったため、すぐに女性を劣ったものとみなす考え方は広まりませんでしたが、その後男性の地位が向上し、女性の地位が下げられると徐々に浸透していったものと思います。

結局は社会の中で地位が低い虐げられている立場に対する差別ですね。

といっても、曹洞宗の開祖である道元は女人禁制について「こんなことをしていては日本が笑われてしまう」と批判していますし、浄土宗の開祖である法然や浄土真宗の開祖である親鸞も同じく女人禁制などには批判的であったと言われているので、分別のある人はいつの時代もちゃんとした判断ができるものなんでしょうけどね。

また、日本では神仏混交でお互いに大きく影響を受けていますから、神道にもこうした価値観が持ち込まれることになったのでしょう。

穢れ思想が差別でないなら部落問題も差別ではないのか?

日本における差別で最も根が深く、深刻な問題の1つが部落差別でしょう。これも穢れの思想が元になっています。

部落差別は河原で死体を処理したり動物を殺して作る皮革製品を作ったりしていた人たちの集まりが元になっているわけですが、これも死の穢れ、血の穢れを嫌うところから来ているもので、女性に対する穢れの思想とつながります。

女性が穢れていると言う思想が伝統文化として正当化されるのであればこうした部落差別も正当化されるのでしょうか?

伝統は差別を正当化しない

伝統も常に見直さなければいけない

相撲協会はさも伝統という言葉を使えばすべてが正当化されるかのような態度ですがそんなわけはありません。

そもそも現代問題になっている差別の多くは歴史的な背景を持っています。歴史的な背景を伝統と言えば差別が正当化されるなんて考え方は許されません。

むしろ差別問題では歴史的な背景まで考えて解決していかなければならないものです。今までやってきたことは差別だった、間違っていたと宣言し過去と決別することが差別問題の最初の一歩なのに、伝統だからというのはまったく時代に逆行した考え方です。

差別問題では伝統という言葉で差別を正当化すること最もやってはいけないことであると思うのです。

もちろん伝統には価値がありますし、一度失えば回復することは困難です。しかし、一方で伝統や文化というものは常にその時代の価値観に合わせて変化しています。現代においても今の価値観と照らし合わせて伝統の中で変えないもの変える必要があるものをちゃんと考えていく必要があるはずです。

過去に何度も問題になっている相撲の女人禁制

相撲における土俵に女性が上がれないというルールは今までも何度も問題になっています。

開催地域の市長や大臣が土俵に上がるのが通例となっている場合でも、それが女性であった場合は土俵には上がれず土俵したで挨拶をしたりするわけです。とても失礼です。今の時代にこんなことして恥ずかしくないのかと思います。

小学生対象のわんぱく相撲全国大会では女の子が地区大会を勝ち上がっても決勝が行われる国技館の土俵には上がれないため決勝には参加できないというとんでもルールもあったようです。今はそもそも男の子しか参加できなくなっていますけどね。

こうして何度も問題になっているのにいっこうに差別が是正されないのは大変な問題です。

そもそも土俵の女人禁制って伝統なの?

土俵の女人禁制っていうほどの伝統なのでしょうか?

そもそも土俵に女性が上がってはいけないという女人禁制の考え方は明治時代以降のものです。それまでは女相撲は当たり前に行われていたわけです。

それが女人禁制などということになったのは、裸の女性を戦わせて見世物にしていると諸外国に知られたら困ると考えたからでしょうし、まぁ、近代化の一環だったんじゃないでしょうか。それが当時政府が政治利用のために生み出し後押ししていた国家神道と結びつき今の形となったのでしょう。

正直、相撲の女人禁制などたいした理由はなく、相撲が国技の座を勝ち取るための神儀としての演出の一環でしかないと思いますよ。本当に神儀であることが理由なら土俵の上で死者が出ることのほうが遥かに大きな問題でしょうからね。

まとめ

土俵の女人禁制は差別であるし、伝統という言葉で差別を正当化することは許されない。たぶん僕以外にも日本人の多くが同じように思っていると思います。だから各メディアでも扱われているしネット上でも話題になっているのでしょう。

こうした問題は相撲に限るものではありませんが、早く是正されると良いなぁと思います。